”神々の里”とよまつ
とよまつむらの紹介
上豊松
下豊松
笹尾
有木
豊松のPR動画
豊松小学校の児童たちが、豊松の魅力を多くの皆さんに知ってもらおうとPR動画を制作しています。
第7弾は、【とよまる公園でキャンプに挑戦!”火起こし編”】3・4年生考案の公式キャラクター「とよきゃん」も登場。
飛べ、この想い。
とよまつむらの中心地にある米見山の山頂にそびえる「とよまつ紙ヒコーキ・タワー」。子どもたちは勿論のこと、大人たちも夢中になり、少年時代に紙ヒコーキを作った思い出に浸りながら、大空に向かって飛ばします。
大パノラマから、飛べ
豊松の伝統文化
とよまつむらに、世代を超えて受け継げられた文化。
豊松盆唄と踊り
夏を代表する風物詩である盆踊り。豊松村には古くから盆踊り唄が伝えられています。
この受け継がれてきた伝統の「豊松納涼盆踊り」を未来へ伝承するために、住民皆さんのご協力を頂きながら、百年後の未来へ継承するために盆踊りの映像収録を行いました。
歌ってみようという方は 二つ拍子 成羽拍子 大和拍子 てんがらこ をご覧ください。踊りはこちらです。二つ拍子 成羽拍子 大和拍子 てんがらこ
豊松盆唄楽譜はこちら豊松村盆歌-採譜pdf
豊松盆唄歌詞はこちら豊松盆踊り歌 平成11年7月収集・発行.pdf
盆唄の歌詞は,音頭さんの聞き覚えで伝承されてきました。また,その音頭さんが想いを自分なりの歌詞にされたものも有ります。この歌詞は豊松村盆踊り実行委員会が収集されたものです。皆さんも,自分なりの歌詞を考えてみませんか?
豊松の神楽
備後地方では古くから荒神信仰が広がり、各地では荒神神楽が行われていました。豊松でも春または秋に苗(みょう)の代表者である荒神持(こんじんもち)の家で行われ、その演目には江戸時代の安永、天明頃のものも受け継がれています。八ケ社神楽は、承徳2年(1098)八ケ庄(豊松、日野、日谷、笹尾、油木、忠原、花済、備中川手の社家によって結成され、最初は独自の吉備神楽に出雲系のものを取り入れ、神前においておごそかに舞っていたものです。その後、備中神代神楽、宮中神楽、伊勢神宮の一部を取り入れ名実共に完成しました。(ふるさと豊松の文化 抜粋)
神儀(じんぎ)の由来
毎年、稲が黄金の波をただよわせるころになると、村の鎮守のお祭りで、鉦太鼓の音が秋晴れの空に響いて、村の人々の心を躍らせます。神儀は、また「拍子」ともいいます。太鼓打は、友禅の胴着に模様のある鎧と、腰に押絵の入った大口というものを付け、頭には尾長鶏の羽根で作った「赤熊(しゃぐま)」をかぶり、後に五色の手繰をたらします。そして、紙かざりをふさふさとつけた枚をもって太鼓を打ち鳴らし、それに合せて入り乱れて舞う有り様は、華やかで美しいものです。
神儀の先頭に立つ獅子舞や猿田彦などは、悪魔をはらう意味をあらわしたものです。神儀の楽調には、打入り、庭打ち、心楽、神殿渡り、宮巡り、獅子打、石段上り、桟敷打などがあります。(歴史と伝説豊松の昔話より)
豊松の歴史・文化・昔話
双子山(ふたごやま)の古墳
下豊松四日市に、東西に並んだ円形の二つの丘ががあります。西の丘には、いま八幡神社があり、東の丘には、昔、天神社があったといわれていますが、この二つの丘のことを双子山と呼びます。昔から、天神社の後ろには古墳があるといわれていましたが、明治30年(1897)、村のある人が、そこを掘ってみたところ、大きな石室と、中には曲玉・管玉・銀環・祝部土器などがあるのを発見しました。この話を聞いて、東京帝国大学(現東大)教授であった坪井正五郎博士が調査した結果、さらに、二人の人骨と鹿の歯、鬼の頭骨などが発見されました。
丘が円形をしているのは、頭を南にした瓢塚(ひさごづか)の後で、身分の高い人と殉死(じゅんし)者を一緒に葬り、それに贄(にえ)を備えたもので、武器がないのは、婦人を葬ったものに相違ないといわれています。年代は、塚の構造と遺物の種類から一世紀ごろのものかと当時言われていました。八幡様のある西の丘は、この婦人の夫を葬ったもので、二つの墳墓が並んでいるために双子山といったものと思われますが、博士は、「夫婦塚と呼ぶ方がよい」と書いています。
昔、開花天皇五世の孫、息長日子王(おきながひこおう)がこの地を治められ、その末孫大船足尼(ばつそんおおふねそこに)が、第13代代成務天皇の時に、備後品遅国造(ほんじくにのみやつこ)に任命されたことがあります。品遅というのは、神石・甲奴の地帯をいい、この古墳は、息長日子王夫婦の墓ではないかといわれてわれています。
堂面洞窟遺跡
上豊松天田川の流域にある岩陰遺跡。洞窟は幅約100mに、高さ30mに及ぶ石灰岩大岩壁の西側に南に向けて開口する2小洞に分かれ、上洞と下洞からなっている。洞窟直前は町道になっており、道路工事の際、岩廂は削りとられているが、本来は道路中央部分まで張り出していた。
(発掘経過)広島大学帝釈峡遺跡群発掘調査室により、昭和42年(1967)~昭和58年(1983)までの調査で一応完了。縄文時代、前期、後期の墓拡(ぼこう)と推察されている。包含層調査の結果、この遺跡は縄文時代早期からのものではないかと言われている。
米見(よなみ)
大船足尼(おおふねそこに)が備後品遅国造(ほんじくにのみやこ)であった後も、その子孫が長くこの地に住んでおられました。当時、備後の北部は治安が悪く、たびたび騒動が起こりましたので、和銅2年(709)に、足尼(そきに)の孫安長(やすなが)とうい人が恵蘇(えそ)郡和久庄(わくのしょう)(今の比婆郡口和町)に出張してこれを治め、自分の姓を品遅部(ほんじべ)と改めました。安長の弟に米見(よなみ)という人がいましたが、息長日子王(おきながひこおう)の末孫なので、姓を息長と呼び、今の米見山(よなみやま)のふもとに住んでいました。米見山という名は、この人の墓があるのでこう呼ぶようになったともいいます。しかし、一方で、品遅国造がこの山に登り、国の様子を見渡していたので国見山といい、後に、いつの間にか米見山というようになったともいわれています。
米見(よなみ)から16代の孫国麿(くにまろ)という人が、息長という姓を澳名(おきな)と改めましたが、寛文2年(1662)に49代の孫澳名豊定という人が、神道裁許状(しんどうさいきょじょう)を受けに京都に上がったことがあり、その時に、豊定は白髪(しらが)の老人でしたので、吉田神道(よしだしんどう)の管領(かんりょう)が
▲現在の米見山山頂公園
「あなたは、ほんとうに翁(おきな)でありますな、これから姓を翁とかえたらどうですか」といいましたので、それ以来姓を翁と書くようになったといいます。その子孫に、賢明の聞こえ高かった豊章・豊春などの神官がでました。
豊松幸運仏堂
昭和56年(1981)11月、道路拡張工事の際、地下1.5メートル位のところから、2基の五輪塔がでてきました。夫婦墓であろうと、地域の人たちが供養したところ、地域に住む6軒の中、5組の家庭で結婚が成立しました。このことから誰云うことなく、「幸運仏様」と呼ぶようになり、近畿、中国、九州からも大勢参拝するようになりました。
今では、「恋人の聖地」として、「パワースポット」としても知られるようになっています。くわしくは、恋愛のパワースポット幸運仏堂紹介・広島県神石高原町観光協会ページ をご覧ください。
恋を叶える!広島で人気の縁結びのパワースポット | 占いのウラッテや、広島の恋愛パワースポット・幸運仏、結婚話が次々と成立 でも紹介されています。
三度栗(さんどぐり)とうさぎ
有木の日野郷に越す道筋に、「坂(さか)の頭(かしら)」という人里離れたところがあります。昔、弘法(こうぼう)大師(だいし)が西国を布教にまわられたとき、ここを通り、道の側にある木の根に腰をおろして休んでおられると、向うの栗山で子どもが二、三人腰にびくをつけておもしろそうに何か話しながら栗の実を拾っているのが見えます。大師は、退屈しておられたので、子どもたちを呼んでいろいろおもしろい語をされてから、「それはおいしそうな栗だな。一つ私にくれないか」といわれました。すると子どもたちは、「どうぞ。大きいのをお取りください」と、みんな腰のびくをはずして差し出しました。
大師は、無邪気な子どもたちの差し出したびくの中から大きな栗を選んで皮をむいて食べられました。ところが、その栗が大層おいしかったので、ことのほかお喜びになり、子どもたちに、「これはおいしい栗だ。お礼に法カ(ほうりき)をもって一年に三度実がなるようにしてあげよう」といって立ち去られました。
それ以来、ここの栗の果は、一年に三度花をつけて三度実がなるようになり、誰いうとなくここの栗を「三度栗」と呼ぶようになりました。それから大師は、谷に下(お)り、岩の間から流れ出る清水(しみず)を飲もうとされますと、どうしたことか突然穴からうなぎが出てきて水をにごしてしまいました。大師はびっくりして、そのうなぎをしかりつけられました。それからはこの谷川にはうなぎが棲(す)まなくなりました。
黄金(こがね)の鳥
川東に恩ケ丸(おんがまる)とおうところがあります。まんじゅうのような小高い丘が、平和な地域の真ん中につき出で、そのふもとには、田や畑が東西に広がっています。丘のまわりに、鉾田(ほこた)といって、鉾を立てた跡らしいところがあるのを見ると、この丘は四方に神の鉾を立てた古墳に違いないといわれています。後に、この山には内藤(ないとう)新左衛門尉(しんざえもんのしょう)実(さね)盛(もり)が城を築いて、その子孫は代々ここにいました。西のふもとに垢離(こり)取りの池があって、米見山から引いた水が、今も盛んに流れこんでいます。
いつの時代か、この城跡に薬師(やくし)さまと大仙(だいせん)さまを勧請(かんじょう)して旧歴4月24日に盛大な牛(うし)市(いち)が開かれていました。そのころ、ここにあった梵鐘(ぼんしょう)が伯耆(ほうき)(鳥取県)の大仙さまに納めているということです。
また、この山には、古くから「漆(うるし)が千樽(たる)、朱(しゅ)が千樽、黄金(こがね)の鳥が一番(ひとつがい)埋めてある」という伝説が残っています。
古歌に
朝日さす夕日さすその山に、うるしが千ちょう朱が千ちょう 黄金の鳥が一番
とあります。
この黄金の鳥というのは、二(ふた)またになった木の下に埋めてあるということで、それは、廻りが一丈(じょう)(約3m)もある大きな桧(ひのき)で、数年前(昭和10年―1935-から)切り倒されてしましました。その時、土地の人が寄り集まって、「掘ってみたいものだ」といろいろ話し合ったそうですが、それきりで、今に誰も掘った人はありません。
(解説)
垢離―きれいな水でからだを清めること 勧請―分霊をお迎えすること
梵鐘―寺のつりがね 大仙さま―大仙寺 一番―二つのものが組みになっていること。おすとめす
九龍谷(くりゅうだに)の仏様
有木の東の端の平川村(岡山県)に続くあたりに九龍谷というところがあります。これは、人里離れた淋しい峠で、昔、盗賊が住んでいたところといわれています。そこにある小道の一ヶ所が、いつも通っても、通るたびにぽんぽんというような音がしていました。昭和3年に県道改修工事があってそこを掘っていると、直径約60センチ、奥行約4.5メートルほどの横穴があり、その奥に、縦横1.2メートルに石を積み上げて仕切りがしてありました。
その石を取り除けると、急に穴が広くなって、奥が3メートルもありそうな古墳が発見されたのでした。その中には、人の骨12片があり、石積みの外で、長さ84センチの太刀一振を発見しました。土地の人は、古い墓を開け、死者の霊の安らかな眠りを妨げたので、たたりを受けてはならないと、人骨と太刀を瓶に入れて埋め、そこに小さなお堂を建て、ていねいに葬り、死者の霊をなぐさめました。
そして、前に6平方メートルほどの休堂をも建てて、これを九竜谷仏さまというようになりました。そして、その年は、そこで盛大な盆踊りまでしてその霊をなぐさめたのでした。縁日を発見の日の3月2日、3日(旧暦)に定めて仏事をし始めてから、いろいろの病気を治す仏さまとしてお参りする人がしだいに多くなってきました。
尾久比城(おくびじょう)の提灯攻(ちょうちんぜめ)
有木の牧迫に尾久比城の跡があります。三方は深い谷で、一方だけ山続きになっており、敵の攻撃を防ぐにはよさそうなところです。南側には段があり、そこに直径2メートル深さ10メートルくらいの井戸があってそこに1㌔ばかり離れた油屋という所から水を引いていた跡がはっきり残っています。城跡のすぐ北川の土居(どい)屋敷(やしき)という所に城主の平生の住居がありました。その続きに、昔、「抱き合い紅葉(もみじ)」といって、小米桜(こごめざくら)と紅葉の木がお互いに抱き合った木があって、その大きさは三かかえも四かかえもあったということです。この木を見た城主が「これは珍しい木だ、掘り取って帰れ」といいますと、側の者が、「この大きなものが・・・どうなりましょうに」といったということです。50年ほど前に枯れて道を横切るように倒れました。人々はその下を潜って通っていたということです。この城には、源五郎吉兼(よしかね)の孫弥次郎久親(ひさちか)がいて、二世親忠を経て三世親宗に至って滅びました。ある時のこと、深夜、城兵は静かに眠っていましたところ、急に人馬の声が静かさを破りました。「すわ敵か」と起きてみますと、向うの久保(くぼ)河内(かわち)のあたりは灯火の波でした。
それは、手に手に火をともした提灯を持てるだけ持ってこれを高く振りたて振りたて押し寄せる敵の軍勢で、その数は数千と見えました。これは玉泉寺城からの夜討ちだったのでした。
親宗はこれを見て、「者ども、おくれをとるな、用意せよ」と下知(げち)はしたものの、多くの燈火(あかり)に気をのまれ、恐れて西の方さして逃げて行きました。ものの1㌔も行かぬ間に敵に追いつかれ、「七人御崎(みさき)」のあたりで槍を合せましたが、押し寄せる敵勢にどうしようもなく、ここで討死したという話が伝えられています。大将を失った城はもちろん敵の手に落ちたのでした。
城主有木氏
昔、吉備大臣広成の後に、太郎尉親国という武士がいました。備中庭瀬の郷を領し、地方の豪族として、その勢力はさかんでした。その子孫に、有鬼親経という豪傑がいました。この人は、有木の別所細谷川で鬼を討ち、ついにこれをたいらげたので、それから有鬼と名乗るようになったといいます。そのまた子孫の平群兼親は笹尾の高松城に居り、合戦でたびたび功名があり、また東福寺のために力を尽くしたと伝えられています。
その子孫の有木吉兼や宮野氏の旗本で豊松の庄日野郷、日谷郷を領して日野山の西のふもとに中山城を築き、代々この地の豪族として勢力がありましたが、有木の尾久比城主源弥次郎久親の兄同弥次郎貴親は、たびたびの合戦で功名があったので宮下野守攻信から賞として、中山城を与えられ城主となり、宝全寺と亀甲山八幡宮を立てたと伝えられています。
同じころ、久親は、備中高松城の水攻めのとき、城方である毛利勢に加わって功があり、毛利輝元から感状を受け、永禄3年(1650)に輝元から尾久比城を賜りました。それから三代にわたって有木氏がこの城にいましたが、久親の孫親宗に至って滅びたことは既に述べました。有木氏は、この間、亀甲山八幡社、猪鼻山八幡社のために力を尽くしています。
中山城は、今、わずかに掘の跡を残し。40年ほど前(昭和10年―1935から)までは原野でしたが、しだいに開墾され今は田となっていますが、附近に、大門、殿懐などの地名を残しています。有木氏の子孫は、甲屋といって大きな邸を構え幣を発行して、栄えていましたが、幕末ごろから次第に衰え、今は、屋敷跡だけが残っています。しかし、明治になって殖牛社という会社を作り、神石牛の改良に尽くした有木亮之助、同修平という人も出ました。
今(昭和10年・1935)、旧屋敷の側に有木トラという人が、先祖の霊を弔いながら暮らしておられますが、この人は品位があり、また、文学の才があって折にふれ、歌を作っていますが、その中から数首を次に掲げます。
日野の山ありし昔にかわらねど
かわりはてしは我家なり
山住みの身こそ安けれさしてゆく
ちりのちまたはもの憂かりけり
乙女子の命とも見め常盤なる
松のみどりの清きみさをを
とりどりに歌へる節の面白や
山田の早苗うえる乙女子
怪力 赤木万吉
宝暦の頃(1751-63)野呂川谷に赤木万吉という力持ちで有名な人がいました。その頃、鶴岡八幡神社に、毎日多くのならず者が集まって近くの家を荒らすので皆困っていました。何とかしてこれを追っ払いたいと思うのですがよい思案がありません。そこで相談の末、万吉に頼むことにしました。頼まれた万吉は、「おれの力を見せたら彼らはきっと恐れて逃げるに違いない」と、早速神社に行きました。「おまえたちは、なぜ神様の前をうろうろして人に迷惑をかけるのだ。ここを出て行け」とにらみつけ、お宮の柱に手をかけて左右に揺り動かしましたら、お宮はガタガタと鳴りました。これを見たならず者達は、恐れて一目散に逃げ出してしまったというのです。
また、ある時、万吉が備中平川村の清河内を通った時、薬師寺で少し休もうと思い、お堂の前にあった100貫(375㎏)もあろうと思われる力石に腰をかけました。ところが、近所の若者達がこの様子を見て大勢集まり、さんざん万吉をののしったうえ、「それに腰をかけるんならその石をかついでみよ」と言いました。すると、万吉は、ものいわずすっと立ち、たちまちこの石を頭の上にさし上げて左右に振り、近くの橋の上まで持って行って流れに向けて投げ込みました。
人々はただ肝をつぶして見ているばかりだったといいます。その後、近所の人達は、薬師さまのお叱りを受けたと、大勢寄ってその石をまた元の薬師堂へ戻したということです。